怪我を負って以降、帰宅後はなるべく早く用事を済ませ横になって過ごす様に心がけています。
昨夜も10時過ぎ。小さな音でラジオを鳴らし、本のページを開きます。
ここから「寝落ち」するまでが私の時間です。
近年、殆ど新しい本を買わなくなりました。どうしても読みたいものは図書館で間に合うし、何度も読みたくなる欲求は自身の書架が満たしてくれます。
再々と金子光春著、「どくろ杯」そして後編「ねむれ巴里」・・・。
時代は1930年前後のアジア各国とヨーロッパ(主にフランス)。氏が30歳代に過ごした時光を70歳代になって記した紀行文学です。
細かな出来事の記述や、その折に至った心理状況、人間模様など40年を経ても蘇らせることが出来たのは氏の卓越した記憶力もさることながら、当時の「旅」とか「移動」が持っていた強烈な非日常性があればこそだと感じます。
何もかも便利になった現代。海外へ行くという行為の重みや経緯が随分様変わりしました。
渡航先の情報はネット経由で手に取るように分かるし、スマホがあればチケットの手配も楽勝。現地到着後の道案内もスマホのアプリ、支払いはカードで対応し、言語的ハンディは自動翻訳機がカバー・・・。
もう、こうなれば、何の為の「旅」なのかよく分からないような気がします。旅時間が瞬間の享楽に終わってしまい、後に脳裏に刻まれた思い出と付き合うという至極の愉楽が随分薄らぐのでは?少なくとも私自身は便利になればなるほど、旅に対する興味、憧れが軽くなってきたと感じます。
上記「強烈な非日常」という言葉の中には当然、危険やトラブルも含まれます。然し生命に関わるほどの事態は別として、時間と言う触媒が想像もしない化学反応を起こしてくれるもの。
沢木耕太郎氏が名著「深夜特急」を書かれたのも旅を終え約30年が経過してからです。
仮に今の時代、同じ様な経験をしても「作品」は生まれないかも。
便利であることが奪うもの・・・。文学に於いても有りそうですね。
写真は一昨日、コマチと見上げる夕焼け。キレイな夕焼けに心癒されました。