今朝の新聞紙面、、、。コロナのもたらした経済的影響で職を失った中国青年の話が掲載されていました。
失業し収入が途絶え毎月3000元の車のローンや、同じ4000元の家賃が焦げつき、働いていた北京を引払って地方の実家に戻った、、、。という内容。
この四半世紀で中国人民の、主に都市住民の生活が大きく変わってしまったことを改めて思い知らされました。
その昔、中国で生活していると頻繁に以下のように問われたものです。
「日本の労働者の給料はいくらなんだ?」
「お前の親父はクルマを持っているか?」
「アパートの家賃はいくらだ?」
などなど。その質問に答える度に相手からため息がもれ、そして、その後、中国タバコの煙が大きく吸い込まれるという次第。
西側の生活を羨み夢見たその「人民」が過程としての速度こそ違え、同等レベル、或いはそれ以上の消費生活を享受できるようになったのです。しかし、、、。彼ら、彼女らは今を幸せと感じ、過去を不幸だったと振り返っているのでしょうか?
昨夜も小山高麗雄の著書を読みながら夜のひと時を過ごしました。短編「戦友」の中に綴られた句子。以下引用、、、。
「、、、生者には哀しみを均らす営みが必要なのであろう。哀しみに限らず、すべて、ものごとを薄め、均して共有する営みが必要なのであろう。虚妄をも共有する営みが必要なのであろう。戦争や軍隊に孤独に反撥してみても、大岩を爪で引っ掻いてみるほどのことだというが、どのような時代にも社会は大岩であり、人は薄めたり、均したり、虚妄を共有することに参加しなければ、他人と円滑に共存することはできないわけだろう、、、」以上引用。
クルマを買うことが虚妄だとは言いたくないですが少なくとも人生の目的ではない筈で、もし目的だと言うならば、その人生は何とも虚しいものだと感じます。そして消費そのものが哀しみや孤独を薄めるための手段だとしたならば、、、現代社会を生きる我々は誰の為に生まれ、そして生きているのだろう、、、。ちょっと長くなりましたが、そんなこと考えながら今朝も歩いてみました。
車も通れない程、細い路地で今年初めて「どくだみ」の花を見つけました。そろそろ晩春から初夏へと季節が移る頃かな。