天保年間に生まれ明治維新を経て47歳まで生きた旧幕臣dr後に新聞人となった成島柳北が残した著書、「航薇日記」。
明治2年、江戸在住の柳北が義兄の戸川成斎に誘われ妹尾の地に遊んだ旅の日々を書き残したものです。
横浜から乗船し大阪、明石、飾磨、牛窓、、、。妹尾の地に逗留中にも、ここを拠点に各地に金毘羅、小豆島までも足を伸ばしており、勿論その途中、由加山にも遊んでいます。
当時の繁盛ぶりは様々な資料で語られていますが、同著書の中でもその一節が見られます。以下引用、、、
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“楼間より望めば一道の街衢漸々に低く、左右の酒楼熱閙驚くべし。西屋といへる家に憩ふ。酒美に魚鮮なり。歌妓鶴香よく歌舞し皷をうつことも亦巧みなり。此女は京師より三年前に来たれりと。其衣帯また田舎に似ず。三吉・栄次といふ両名も来たりて興を添ふ。髪はみな奴てふ結ひかたなり。かかる山中にこの繁華郷のあるは誠に意表といふべし。”上記引用
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今はひっそりとした参道ですが、この一文を読んで界隈を歩いてみると、そこかしこに紅粉の「匂い」も感じられます。
本殿の裏手、妙見山にも小さな社があり、その手前の常夜灯付近に「一丁」の丁石が置かれています。その側面には丁石にしては珍しく沢山の人名が刻まれています。しかも多くは女性の名前。最初見たときから不思議な感じがしていましたが先日訪れた児島図書館の資料よりその謎が判明しました。
刻まれた名は当時参道で旅館、料亭を営んでいた主や芸者、娼妓の名前なのです。柳北が席に招いた鶴香、三吉、栄次の名前も見えますので同時代のものに間違いないでしょう。なんか、、、感動。資料によると、妙見の社は芸者や娼妓によって建てられたもので、彼女たちは願掛けのため裸足で参拝しそうです。
我が町、妹尾でも本陣裏の稲荷山に登ったり、ママカリや牡蠣に食舌鼓を打ったり、岸田冠堂、藤井和夫(にぎお)らと詩文を語り合ったり充実した時を過ごされています。ただ不思議なのは、、、
道中、宿を取れば娼妓や芸者を招き、その褥に夜伽をさせた柳北ですが、妹尾の地での逗留中はその風が見えません。ただ美香さんという歌妓の名のみが残っています。同行した成斎の家族の手前もあって遠慮してたのかもしれませんな。
一本の丁石から、一冊の紀行文から想像は無限に広がります。そして次の休みも、、、また由加山に足を向けることとなるのです(笑)