日々を生きる中で「漢たるものかくあるべし!」と思わせる人物との出会いは頻繁にありません。私自身この世に生まれ落ちて以来のー半世紀を顧みても然り。もしそこに書中での出会いを含めるとすれば多少の幅を持って論ずることが叶います。
高校時代に心酔した漢の高祖「劉邦」、留学時代、暇つぶしに読んだ「竜馬がゆく」の中に活躍する勝海舟、そして成人後手に取った「峠」の作中に凛とした立ち姿を見せる河井継之助、、、。並べてみると全て故司馬遼太郎氏の作ばかり。特に氏の作品の熱狂的ファンでもないのですが、、、。
先日来、気にかかることがあり「峠」を再読しています。調べてみるとこの作品はちょうど私が生まれた日を前後して新聞に長期連載されたものです。
作者は齢四十代の半ば。怪我から発症した破傷風で河井継之助が亡くなったのと同じ年頃に重なります。
ところで、、、。
今年も大学受験がスタートしました。AOや各種推薦入試は既に結果が出ているものもあり希望が叶った者もおられるでしょうが、多くの受験生が新しい形式で実施される一般入試へと心血を注いでいる頃かと察します。
私は大学入試という関門を通ることなく社会に出た者の一人です。全入時代といわれる今と異なり、我々の時代には四年生大学に進めたのは少数派でした。その「少数派」に入り込めるだけの才も努力も環境も無かったのだから仕方のないことで後悔はありません。しかし気力も記憶力も申し分ない18歳という年齢で学習に没頭する時間を持った方との相違は小さくないと感じます。それは単に知識量だけではなく、問題を解決する力や苦難に立ち向かう力の差として様々なシーンで感じさせらました。
人間にとって「学ぶ」ということ、そして「学び」とはどんな意味を持つのでしょうか?
「峠」の中にこんな一節があります。最初の江戸留学中、古賀塾に籍を置いていた頃、継之助を慕う後輩への言。
-----心を曇らさずに保っておくと物事がよくみえる。学問とはなにか。心を澄ませ感応力を鋭敏にする道である----
また、
----どの人間の心も一種類しかない。人間には心のほかに気質というものがある。賢愚は気質によるものだ。気質には不正なる気質と正しき気質がある。気質が正しからざれば物事にとらわれ、たとえば俗欲、物欲にとらわれ、心が曇り、心の感応力が弱まりものごとがよく見えなくなる----
以上引用。
毎度のことながら、なるほど!と得心させられる一節です。
受験生諸君は自身の気質を信じ、心を曇らせることなく最後の1日まで学習に取り組んで欲しいものです。受験生という立場は、いつの世も誰にでも当然に与えられるものではないのですから。
因みに栗村神社の鳥居は嘉永五年に建てられたもの。継之助が江戸に学んだ上記時代に重なります。