先日来の継之助あれこれ。
西国遊記「塵壺」の行程を辿ってみると、昔に旅人がいかに健脚だったかを思い知らされます。殊に継之助は親に無心して懐に備え得たのは50両。のんびり旅を楽しめる余裕も無かったのでしょう。謂わば私費留学生か。
そう言えば私も留学時代には現地の人からよく問われました。
「おまえは国費か、私費か?」
留学費用の出どころのことです。正直に私費だと答えると軽く見られることが多く、場面によっては国費!とウソをついたこともあります。ごめんなさいね。その途端、相手の態度がガラリと変わることもありました。
さて継之助。連日概ね40kmほどを歩き通しています。当時の道路事情、履物などを鑑みれば当時としても相当な強行軍だった筈です。
例えば、、、安政6年、、、、。
7月11日 兵庫(神戸)→高砂
7月12日 高砂→正条(竜野近郊)
7月13日 正条→片上
7月14日 片上→妹尾
といった具合。私も歩くのは嫌いな方ではありませんが、ちょっと真似出来そうにありません。
学びへの欲望と時代の熱気が彼の背中を後押ししたのでしょう。
以下抜粋、、、、
「町へ入りて小橋、中橋の二川は、皆、上り川にて、京橋に四国、高松の船、数艘あり。一、六の日には是非、大阪へ船出る。四国へは毎日、便船ある由なれ共、如何にも盆十五日の事なり。必ず出るとも定まらず。讃岐へ渡らんため、暫く見合わすれども、思い切りて本道を行かず、妹尾と云う処に到る、、、、」
上記抜粋
岡山市民なら旅の経路がお分かりででしょう。昔の旅は朝早く日の出と共に宿を発つのが慣例なのですがさすがに片上から妹尾は遠い!おそらく夕日を追いかけながら或は日が暮れてからの到着だったのではと想像します。私も是非、シュミレーションしてみたいところです。
ところで何故、本道を外れたのか?その続きに書かれていますが、瑜伽、金比羅に詣でたかったのです。天候に恵まれず瑜伽のみで引き返していますがその行程と距離に些かの不審点を発見しています。その剣に関しましては次回の稿にて。