少年期の後半と言うべきか青年期の入り口と呼ぶべきか、そんな年頃から井上靖の著作に親しんできましたので既に35年位のお付き合いになるでしょうか。
当時は氏もご存命でご逝去の報を聞いた時にはご高齢だったとは言えファンとして思わずため息を漏らし翌日の新聞各紙に掲載された関連記事に目を通したことを思い出します。
今更の様に読み直した「崑崙の玉」。西域に関連する短編集ですが何とも味わい深い秀作の数々がが収められています。その中からひとつをとりあげるとすれば、、、「古代ペンジケント」を選びたいと思います。
タジキスタンのサマルカンドを訪れた視察団の一行が行程の一日を割いて訪れたペンジケント遺跡。その地の博物館で聞いた話が小説の中心ですが語り手は学芸員や館長ではありません。
発掘という作業に10年以上関わり、生まれ育った地の経てきた歴史に傾倒し独自に知識を蓄えており館長を謂わせて「本職の考古学者も及ばぬほどの知識と見識を持っている」タイル職人の男の口からその物語が語られます。
年に数ヶ月だけ現地に入り調査をする学者たちと異なり一年を通してその地に住み、時間があれば丘の上の遺跡に登り、月光に照らされたかつての街区を歩きまわってきたタイル職人の憑かれた様な語りに皆が聴き入ります。以下引用、、、
「私が夜遺跡に登って行くのは、昼間の場合より、遺跡がはっきりと生き生きとして見えるからであります。伽藍も、建物も、塔も、城壁も、広場も、街路も、月光に依る光と影の隈取りで、くっきりと浮かび上がっているからであります。少し極端な言い方をすれば、そこに生き、働いている人の生活の響きも、彼らの挙げる声も、手工業工場から響いてくる金属音も、馬や駱駝の嘶き、私には手にとるように聞こえてくるように思います、、、、(続く)」
この男言わんとすることが理解できる気がするのです。
勿論そこには伽藍もなければ建物もありません。それらは既に崩れ落ち土に戻ろうとしている状態です。しかし夜になるとその男には見えるのです。目が見ているのではなく、その脳に蓄えた知識と想像力が物体や音を廃墟の中に浮き上がらせるのです。
私も夜の散歩コースに地元の細い路地や寺社の境内を好んで通ります。ふとした瞬間、かつて栄えた町の喧騒や古書の中で出会った有名無名の故人が歩いてくるような錯覚に見舞われます。
旅に疲れた河井継之助が、酒に酔った成島柳北が、夜空を仰ぎながら漢詩を推敲する岸田冠堂が、そして歌妓の弾いた三味線の音が。
これが夜という時間の持つ不思議な力といえるでしょう。
夜間も暖かくなってきました。夕食後、靴を履いて近所を歩いてみませんか?何か、或いは「誰か」と出会えるかもしれません。