連休中以来、歩かせていただいた地場大師霊場にて、心震える様な出会いがあったお話です。
道中にある坪井地区はその昔、美しい梅林で有名な土地でした。同地の大師を詣るべく未舗装の遍路路を辿っていくと、鬱蒼とした竹林の中に石碑と看板が建っています。風化で読み難くなった石碑ですが看板の案内文に助けられて読み進むところに拠れば、その碑は妹尾の歌人「藤井淡叟」の歌を刻んだもの、、、とあります。
妹尾の歌人で藤井、、、といえば時代背景からしても明治2年、愛してやまない成島柳北先生が妹尾の地に遊んだ折、老医岸田冠童が引き合わせた「うたよみ」和夫(にぎお)であることは間違いないでしょう。和漢洋共、当時としては最高レベルの学識見識を持った柳北をして「いと風情ある人なり」と日記に書かれています。
会合した夜、淡叟が柳北に見せた自身の歌は、、、
「暮れはてしみ山の秋をせきとめて筧の水に氷る紅葉ば」
「うらやすし浮世をよそにみねの松庭にこるへき身となりにけり」
そして柳北が送り残した歌は
「からやまと詞花の咲きそへてさか行く宿を祝ふ今日かな」
生年を参照すれば明治2年当時、淡叟は三十六歳、柳北の方が年下の31歳かと。
おそらくは一日居ても誰も来ないであろう今は竹林となった元梅園。石碑の前に一礼し持参したお茶を飲みながらひと時を過ごしました。
因みに柳北の記述に梅園は見えませんが、後年の大文豪、永井荷風の著書には同地に遊んだ記録を見ることが出来ます。