趣味を問われたら旅行だと答える程度に旅の時間を楽しんできた。
しかしコロナ禍は旅を取り巻く環境も大きく変えてしまった。海外は勿論、日帰りの小旅行すら憚られる日々が続いた。ここに来て漸く緩和されつつあるが以前の姿に戻るまでにはもう暫くの時間を要するだろう。
人が移動する手段は時代とともに変化してきた。グレートジャーニー。人類は気の遠くなる様な時間の中を歩くことに頼ってその種族の生息地を広げた。そこまで遡らずともごく最近まで歩くことは庶民に許された自由への選択だったと言えよう。
故郷を東西に貫く道はその昔「金毘羅往来」と呼ばれた。西国街道の要所である岡山宿から分かれ文字通り金毘羅、四国へと向かう旅人たちの足によって踏み固められてきた往来である。
往来の主役が自動車となって久しいがその道幅は変わらない。対向車とのすれ違いに神経を尖らせながら地元の運転初心者はその技を鍛えられるのだ。私も然り。
幼い頃、界隈にはまだ旅館や料理店が残っていたし日用品や生鮮食品を商う店舗も繁盛していた。古老の話によると造り酒屋や映画館もあったらしい。しかし時代は遷りその繁栄は広い駐車場が確保できる郊外型の商業施設などに移ってしまった。仕方のないことだろう。
私は今も日々通勤や散歩でその往来の上を歩いている。車では狭いと感じる往来の道幅も歩いてみれば人と人、せいぜいそれに馬や駕籠が混ざって行き交うには十分かつ最適なものだったと納得できる。現代人が傲慢になっては往来に気の毒だ。道幅が狭くなったのではない。乗り物が大きくなっただけなのだ。
旧陣屋の跡から西に歩を進めると信号交差点に行きあたる。ドライバーの目に留まることはないだろうが、その一角には大正期に据えられた石の道標がある。一メートル程の四角柱それぞれの面には、おか山、ゆが、いなり、はやしま等の地名が旧仮名で彫り込まれているのが確認できる。
今はその街角を洋品店や郵便局、スーパーが占めているが、その昔は旅人が束の間の憩いをとる茶屋や草鞋を鬻ぐ店もあった筈だ。
旅人を導いた道標は数多の出会いや別れにも寄り添ってきただろう。もし道標が話せたなら是非その物語を聞いてみたいものだ。
夜の帳が降りると往来はその風情を増す。信号が青に変わる。「おか山」と刻まれた方角に歩を進めてみる。靴を履き洋服に身を包んだ私達も絶え間なく流れる歴史の刹那に生を受けた旅人の一人だと思えるのだ。