酒を嗜まない両親に育てられた。振り返っても私の幼少期には酒が存在する光景は思い浮かんでこない。
父方の親族は皆、筋金入りのヘビースモーカーだが好んで酒を飲む者はいなかった。葬儀や法要の席でも食事のみが提供され、飲み物はお茶と子供用のジュースが用意されるのみ。今もそれは変わらない。
母方の親族には祖父を含め酒を嗜む者が少なからずいた様だが、冠婚葬祭等での付き合いは薄かった。
母校の中学は隣接する二校の小学校が一緒になりクラスが編成された。思春期の入り口に立った少年少女達は新しい友人を持つことになる。その中の一人「S」とは入学したての頃に知り合い今に至る。既に四十年以上の付き合いになってしまった。
以下は大きな声で言えないが時代背景や過ぎた時間を考慮して寛大な気持ちで読み進めていただきたい。
付き合いが始まってしばらく経った頃、彼の家へ遊びに行った。Sは父親の書斎からウィスキーを持ってきた。
「これをジュースで薄めて飲んだらうめぇんじゃ」
断るのも格好がつかず一緒に何杯か飲んだ。当然であるが酔っ払ってしまった。しかし不思議なことに不快感は無かった。美味いと感じたかどうかは別として、これが酒なのか、酔うという状態なのかと新鮮な感動を味わった。
学生時代、独身時代それぞれに酒との付き合い方は変化していった。
合法的に飲める様になった頃は折しもバブル経済絶頂期。それなりに可処分所得もあっので外飲みの機会も多かった。酒を提げて友人の家に押しかけ飲み明かしたりもした。美しい女性が侍ってくれる店に通ったこともある。その後、妻帯し子供が生まれると飲み方も変わってくる。妻に安い酒を買ってもらい夕食のおかずを肴に妻の愚痴や子供たちの嬌声を聴きながら飲むことになる。勿論、それも幸せなひと時だったと言いたい。その子供たちも成人し家を離れた。三交代のシフトで働く妻と過ごす時間も無くなった。近年は食卓で一人静かに夕食を摂ることが多い。これも家族の成長と思っている。
仕事を終えた帰り道。スーパーやコンビニに寄り酒を買うことが増えた。夏なら第三のビール、それ以外の季節は専ら一合入りの清酒。どちらも百円前後の代物である。
レジで会計を済ませ店の敷地を離れたところで封を切る。そしてそこからのんびりと「歩き飲み」を楽しむ。
飲み歩きという言葉は世間に親炙されている。何件かの店を飲み歩く意であることはご存知かと思う。しかし歩き飲みという言い方はあまり聞かない。通用するのかどうか解らないが今の私は明らかに飲み歩きではなく「歩き飲み」の愛好者と言えよう。
共に二つの動作が重なって出来た言葉だが、ニュアンスも実態もかなり異なる。後者には些かの後ろめたさも感じるが、一度味をしめるとその爽快感や経済性の魅力は中々に捨てがたい。
先ずはその爽快感。カップ酒のフタを開け口に含む。安い酒でも開封したての新鮮な香りは日の経った吟醸酒に負けずとも劣らない。
そして飲み干す時に見上げる対象も違う。酒場や家ならその味気ない天井だが歩き飲みであれば季節ごと天気ごとそして時間ごとに異なる表情が迎えてくれる。勿論、帰路であれば星空となる。
中国語で飲み歩きは「一边走一边喝」と表現する。歩き飲みならその前半と後半が入れ替わる。しかしその意味や行動は変わらない。そもそも中国では一般的に飲み屋をハシゴする習慣が無い。歩きながら酒を飲んでいると捉えられるだろう。因みに中国語で「走」は歩く動作を表す。走るに相当する動詞は「跑」。パオと発音する。「歩」は動詞ではなくあくまで進行状態を説明する量詞として存在している。その様な相違も外国語を学ぶ面白さかと思っている。
ともかく酒である。今夜も天気は良さそうだ。酒を飲んで見上げる夜空を楽しみに労働に勤しもう。