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毎年、「市民の文芸」に作品を応募しています。次の日曜日が表彰式なのですが…今年は無念…。最も時間を注いだ随筆が選から漏れました。 短歌が入選、俳句は選外掲載という結果。随筆一本で勝負に出た私の師匠も選外で肩を落とされてます。とりあえず私は表彰式に出席できますが何となく気分の重さを感じてます。 選外となれば公開も自由なので…。よろしければご一読くださいませ。青春の甘い記憶です…。 王城の追憶 近年、名前の横に年齢を書き込む度、その数字の大きさに愕然とする。こんなに長く生きてきたのか、と。 どうやら私の齢は既に初老と呼ばれる域に入っているらしい。まだ初が付いているとは言え暫くは老の文字から目を逸らしていたい心境である。しかしその「老」とやらを盾に綴ってみたいテーマもある。もう会うことは無かろう異性との思い出。そんな昔日の記憶に遊んでみるのも許される頃かと思いペンを執った。私の青春、たまゆらの記憶である。 哈密瓜という果物をご存じだろうか。果肉はオレンジ色で形はラグビーボールに似ている。中国北西部、新疆ウイグル自治区の産品で名称中の哈密は主たる産地の地名である。 芳醇かつ上品な甘さもさることながら私にとって哈密瓜という名の響きは、遠く過ぎ去った時代の忘れ難い情景を連想させる。 私の通った小学校のロビーには子供の背丈程もある巨大な地球儀が置かれていた。その地球儀を回す度に中国という隣国の大きさと自国の小ささに驚かされた。人口や面積、国境線の長さ等を具体的な数字で理解したのは中学生になってからだろう。更に月日は流れ十九歳になった私は中国の小都市の大学に籍を置き留学生としての日々を送っていた。 時代は十九八〇年代の後半。基本的な衣食住に不自由は無かったが時には多少の不便と付き合うことも強いられた。それも今となれば笑って振り返られる程度のことだ。 ある夏の昼下がり。その日、私は教科担任の若い女性教師と二人で街を歩いていた。昼食を済ませた後も、おしゃべりしながら屋台の並んだその界隈の散策を楽しんだ。 羊肉の串焼き、麺類、梅シロップを使った清涼飲料、そして果物を売る店も多かった。その一軒で哈密瓜を見つけ値段を尋ねた。 「おじさん!哈密瓜は幾らなの?」 店主がその金額を口にした途端、私の傍らにいた教師と店主の戦いが始まったのだ。 普段から活発な彼女は売り手の店主に負けない声量と押しの強さで値段交渉を続けた。 最終的にいくらで買ったのかは記憶にないし、どちらが支払ったのかも思い出せない。しかし当初の言い値より安く買えたのだろう。「商談成立」後の教師の顔は満足そうだった。 実を言えば当時の私は美しく聡明な彼女に対して恋心にも近い憧れを感じていた。いや、恋心そのものだったと言うべきだろう。勿論、私の単相思(片思い)で、その気持ちを伝えることなく留学期間を終え帰国した。 以来、哈密瓜を食べたことはない。その教師にも会えてない。既に三十五年の歳月が過ぎた。 哈密は中国語でハーミーと発音する。西域の匂いを感じさせるその名を呟く度に果肉の色や甘さが思い出される。そして同時に勝利路と呼ばれた屋台街の雑踏や、嬉しそうに哈密瓜を抱えて歩く若き日の彼女の姿が脳裏に浮かんでくるのだ。 #
by cr80b1
| 2022-11-28 11:19
通勤路で小さなボタンを拾った。職場へ急ぐ途中、本来なら目に入っても無視するか蹴飛ばす対象だが歩を止め腰を屈めそれを拾ったのには訳がある。 そのボタンは地元中学の制服に使われるもの。じゃれ合いながら通学する生徒の学生服からちぎれ落ちたのだろう。その大きさから袖口用だと察せられる。同校は私にとっての母校でもある。手のひらに収めたボタン上に刻まれた校章を懐かしく眺めながら自身が中学生だった時代に思いを馳せた。髪の毛が薄くなり、気づけば鏡の前でため息をついている初老の私も四十年前は中学だったのだ。 語れば長くなるので割愛するが、ある「事件」以来、全ての学業から目を背けた。宿題、提出物、試験勉強…全て無視。その結果、成績は惨憺たるものだったが学校は好きだった。毎朝、早くから登校した。賑やかな仲間達と過ごす時間も楽しかったが誰もいない教室で過ごす静謐な時間に心地良さを感じていたのだと思う。 傍らを通り過ぎて行く中学生達の姿、そして一センチ程のボタンを眺めながら、やけくそと開き直りの中に過ごした中学時代を思い出した。それでも許されるのが青春を生きる若者が持つことの許される特権だと言いたい。 #
by cr80b1
| 2022-11-19 08:34
最近、レッスン前に立ち寄る古書店で求めた一冊…開高健のエッセイ集。破れた繭 氏の文章を読んでいつも感じるのは、その飛び抜けた思考回路の回転速度に筆が送れまいと足掻いている様な騒がしさである。 残念なから凡庸に生まれ育った私は終始「駆け足」しながら文面を追いかけることとなる。しかし駆け足しながら、時に息切れを感じながらでも追走したくなる魅力に満ちている。素晴らしい!オーパ! その中でも戦後の闇市で飲み屋の手伝いをしてた友人との邂逅、そして生涯の友人となった谷沢永一との出会いや行き来について書かれた件は秀逸であり心を打たれた。そもそも薄い文庫本ではあるが、この数十ページに目を通せただけでも百円の何倍に換算すれば妥当なのか分からない程の大きな価値があった。あくまで私にとっては…である。 写真はその一部を抜粋。谷沢にいきなり絶交を言い渡された時の開高健少年の心境。確かにそうだ。人と人とが長く繋がることの難しさを改めて感じながら何度も読み返した…。 ![]() #
by cr80b1
| 2022-11-15 09:16
酒を嗜まない両親に育てられた。振り返っても私の幼少期には酒が存在する光景は思い浮かんでこない。 父方の親族は皆、筋金入りのヘビースモーカーだが好んで酒を飲む者はいなかった。葬儀や法要の席でも食事のみが提供され、飲み物はお茶と子供用のジュースが用意されるのみ。今もそれは変わらない。 母方の親族には祖父を含め酒を嗜む者が少なからずいた様だが、冠婚葬祭等での付き合いは薄かった。 母校の中学は隣接する二校の小学校が一緒になりクラスが編成された。思春期の入り口に立った少年少女達は新しい友人を持つことになる。その中の一人「S」とは入学したての頃に知り合い今に至る。既に四十年以上の付き合いになってしまった。 以下は大きな声で言えないが時代背景や過ぎた時間を考慮して寛大な気持ちで読み進めていただきたい。 付き合いが始まってしばらく経った頃、彼の家へ遊びに行った。Sは父親の書斎からウィスキーを持ってきた。 「これをジュースで薄めて飲んだらうめぇんじゃ」 断るのも格好がつかず一緒に何杯か飲んだ。当然であるが酔っ払ってしまった。しかし不思議なことに不快感は無かった。美味いと感じたかどうかは別として、これが酒なのか、酔うという状態なのかと新鮮な感動を味わった。 学生時代、独身時代それぞれに酒との付き合い方は変化していった。 合法的に飲める様になった頃は折しもバブル経済絶頂期。それなりに可処分所得もあっので外飲みの機会も多かった。酒を提げて友人の家に押しかけ飲み明かしたりもした。美しい女性が侍ってくれる店に通ったこともある。その後、妻帯し子供が生まれると飲み方も変わってくる。妻に安い酒を買ってもらい夕食のおかずを肴に妻の愚痴や子供たちの嬌声を聴きながら飲むことになる。勿論、それも幸せなひと時だったと言いたい。その子供たちも成人し家を離れた。三交代のシフトで働く妻と過ごす時間も無くなった。近年は食卓で一人静かに夕食を摂ることが多い。これも家族の成長と思っている。 仕事を終えた帰り道。スーパーやコンビニに寄り酒を買うことが増えた。夏なら第三のビール、それ以外の季節は専ら一合入りの清酒。どちらも百円前後の代物である。 レジで会計を済ませ店の敷地を離れたところで封を切る。そしてそこからのんびりと「歩き飲み」を楽しむ。 飲み歩きという言葉は世間に親炙されている。何件かの店を飲み歩く意であることはご存知かと思う。しかし歩き飲みという言い方はあまり聞かない。通用するのかどうか解らないが今の私は明らかに飲み歩きではなく「歩き飲み」の愛好者と言えよう。 共に二つの動作が重なって出来た言葉だが、ニュアンスも実態もかなり異なる。後者には些かの後ろめたさも感じるが、一度味をしめるとその爽快感や経済性の魅力は中々に捨てがたい。 先ずはその爽快感。カップ酒のフタを開け口に含む。安い酒でも開封したての新鮮な香りは日の経った吟醸酒に負けずとも劣らない。 そして飲み干す時に見上げる対象も違う。酒場や家ならその味気ない天井だが歩き飲みであれば季節ごと天気ごとそして時間ごとに異なる表情が迎えてくれる。勿論、帰路であれば星空となる。 中国語で飲み歩きは「一边走一边喝」と表現する。歩き飲みならその前半と後半が入れ替わる。しかしその意味や行動は変わらない。そもそも中国では一般的に飲み屋をハシゴする習慣が無い。歩きながら酒を飲んでいると捉えられるだろう。因みに中国語で「走」は歩く動作を表す。走るに相当する動詞は「跑」。パオと発音する。「歩」は動詞ではなくあくまで進行状態を説明する量詞として存在している。その様な相違も外国語を学ぶ面白さかと思っている。 ともかく酒である。今夜も天気は良さそうだ。酒を飲んで見上げる夜空を楽しみに労働に勤しもう。 ![]() #
by cr80b1
| 2022-11-14 13:24
文化とはその置かれた立場で濃厚になったり希薄になったりする「物体」と言えよう。 言語や文字も然り。十代最後の夏を過ごした中国の内モンゴル自治区で使われているモンゴル文字も次世代への継続が難しくなっていると知った。中国語がモンゴル語や縦文字の存在を圧倒しているのだ。 モンゴル国ではモンゴル語が公用語である。教育機関もモンゴル語で授業を行うが文字は伝統の縦文字ではなくキリル文字を使用している。 民族固有の文字からアルファベットに文字が移行した例は少なくない。アジアでもベトナム、インドネシアなどが思い浮かぶ。 私は初めてモンゴルの文字を見た時の衝撃を今も忘れない。文字の面構えに男性的なものと女性的なものがあるとすればモンゴル文字からは明らかな男性を感じる。勇壮という表現も似合おうか。世界的に珍しい縦書きであることも日本語との共通点だ。 冒頭触れた旅の途中、国境近くの小さな街に滞在した。街よりも「町」と書く方が相応しいのかも知れない。東西南北…街角からどの方角に歩いても十分もかからず道は草原に消える。 その街で一人の女性と知り合った。別れ際お互いのアドレスを交換し文通を始めた。「美しい浮草」という意味の名に相応しい凛とした気品を感じさせる彼女との文通は何年も続いた。別にお互いが異性として惹かれたわけでもない。今思えば不思議なやり取りであった。 彼女からの手紙に限らず、私は今まで受け取った手紙や葉書の殆どを保管している。 先日、久しぶりに「美しい浮草」からの手紙を開いてみた。文末には八十年代後半から九十年代前半の日付が記されている。 残念ながら私はモンゴル語を解さない。お互いのやり取りその全てが中国語で交わされた。しかし私は彼女の書いた字体にモンゴルの風を感じ得る。今もそして当時もである。 上手いとか下手ではなく、平素モンゴル縦文字を使用する者だけが持つ筆癖が漢字にも表れていると思えるのだ。 消えつつあるモンゴル縦文字だが、それ以前に筆跡やら筆癖などという言葉自体も無くなってしまうのかも知れない。何しろ小学生からタブレット端末で言語を吸収し発信してゆく時代なのだから。 今、彼女はどこでどんな生活を送っているのだろう。インターネットにアクセスすればその街の様子を見ることが出来る。しかしそこには一片の面影も残されていない。発展や進歩は破壊を伴うものだと思い知らされる。 三十年以上を隔てた彼女の文字から旅の記憶と草原の匂いが蘇ってきた。 ![]() #
by cr80b1
| 2022-10-26 09:43
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